【中学受験】SAPIXでの思い出 3(生徒から目線 編)

 
【中学受験】SAPIXの霜山先生(イモ)
 
【中学受験】SAPIXでの思い出 1(イントロダクション編)
 
【中学受験】SAPIXでの思い出 2(生徒から目線 編)
 
このシリーズの続きです。
今回はWisardで算数を授業をしており、
このブログを書いているアベが小学生時代に通っていた、
SAPIXの思い出2です。
 
いくつか記憶の残るエピソードを挙げていきます。
超有名な先生で、おそらく現在は中学受験業界を離れている先生以外は、
イニシャル表記とさせていただきます。
 
 

至るところに貼られた注意事項 トイレは男女共用

 
SAPIXに入って、まず気がついたのは、
いたるところに貼られた注意事項でした。
 
「トイレにイタズラをした生徒は退室処分とします」
「エアコンのスイッチに触った生徒は退室処分とします」
「廊下を走り回った生徒は退室処分とします」

 
色んな所に貼り紙があります(笑)
処分厳しすぎだろ!!とみんなが思っていたはず。
 
しかし、こういったことで実際に
退室処分になった生徒はいなかったはずです。
イタズラな友達がその紙そのものを破り去り、
みんなで大笑いした記憶があります。
 
 
トイレは当然男女共用で、
 
「先生!トイレに行くには、
ガスマスクが必要です!」

 
というセリフが
冗談で口にされるような雰囲気でした。
 
 

当時からアルファクラスはありました

 
僕の通っていた当時は、
東京校はたしか12コース編成だったでした。
 
初めはα1~8 β1~4という名前だったのですが、
途中からα1~6 F~Aという名前に変わりました。
 
これは現在のクラス編成に近いですね。
αは偏差60以上というおおまかな目安はありますが、
現在では偏差58前後でもαに入ることはありますし、
当時は全体の半分(偏差50以上)がαだったわけで、
あくまでおおまかな数字のようです。
 
βクラスという名称を見たことのある、最後の世代かもしれません。
 
その時は8Fのα1だけはエレベーターを使っていいというルールで、
いいなぁ~、と羨ましく思っていました。
 
 

担当の先生たち 算数B 霜山先生

 
5~6年生として通っているので、
担当の先生たちは時期によって変わったのですが、
印象に残っている6年生α1~3を担当していた先生は、
以下の先生だったと記憶しています。
 
算数B:霜山先生
言わずと知れた、SAPIXの創業者。
通称イモ。
 
未だかつて、これほど授業力の高い先生を見たことがありません。
詳しくはまた別に紙面を割きたいと思いますが、
集中する場面と大笑いしながら先生の解説を聞く場面のメリハリがあり、
子どもがどんどん手を挙げて発言する雰囲気を抜群にうまく作っていました。
 
板書はシンプルで、字はデカい。
「簡単なことも難しいこともシンプルに教える」先生でした。
 
メリハリという意味では、子どもをけなす/褒める、
否定する/肯定する のも上手で、
しかも1回の授業内でどちらの場面もあるように
無意識に工夫していたように思います。
 
 
どれくらいわかりやすかったかと言うと、
霜山先生がSAPIXをつくるのに伴って、αクラスの生徒が大量に移籍し、
やめられたTAPの開成の合格者数は51人から翌年は9人に減少したそうです。

 
生徒たちがこぞって霜山先生についていったのが、
よくわかるエピソードだと思います。
 
 

他の担当の先生たち

 
算数A:T内先生
相方の先生が華々しいタイプであるのと対照的に、
堅実なシルバー世代の先生。
(今では)方程式っぽい解法を好むタイプの先生だった記憶があります。
 
 
国語B:Y原先生
通称「ブン○イ」先生。
後で知ったところだと、SAPIXの資本家というか、
出資者的な立場の先生だったようです。
(伝聞情報なので、確定ではありません)
 
とにかく立場的に偉い先生であったことが、
後々にわかりました。
 
授業の方は、それほど印象はないのですが、
色々な生徒の答案を読んで、それをイジりながら、
結論に向かっていくようなタイプの進め方だった記憶があります。
国語は新しい文章が読めれば満足、
みたいな調子で、自分があまり熱を入れて授業をうけていなかったことがわかります。
 
 
国語A:Kクボ先生
ひげ面の巨漢。
豪快な印象なのに、
担当は国語Aで文法多め、ということで、
そのギャップが可笑しかったです。
 
一度SAPIXの中でマンスリーの国語の順位が1位だったことがあり、
それを授業中に唐突に発表して褒めてくれて、
ビックリしたことを今でも覚えています。
 
 
社会:K先生
いまでもSAPIXの超偉い先生のはずなので、
恐れ多くて何も書けません…………。
 
とにかく周囲の生徒がなんでも覚えていることに、
感心してばかりでした。
 
ヒントはバラのネ○○○とシャ○○、です。
 
 
理科:奥田先生
 
僕がSAPIXに先生として採用された当初の社長だったはずです。
霜山先生に次ぐ、2代目の社長ということになるのでしょうか。
 
ジャパネットたかたの社長さんに、
少しドスをきかせたような語り口で、
説得力のある上手なお話のしかたをなさる先生でした。
 
上記6名の先生たちの中では最も厳しく、
ふだんサル山のように騒いでいる教室が、
奥田先生の授業の時間前になると、
シーン、と静まり帰っていたことを覚えています。
 
僕は理科が超苦手だったので、
授業で失敗して一撃でクラスを落とされるという恐怖もあり、
心底ビビりまくっていました。
 
とはいえ、授業を受けたくない/行きたくない というようなことはなく、
なんとかついていかないとヤバいという気持ちでした。
 
 

自由で熱量のある空気

 
いまでは考えられないことですが、
なにか悪さをした生徒が黒板けしの角でコツンとやられたり、
黒板けしのスポンジでバフン!とやられたり、
あとは本当にとんでもないことをしでかした生徒は、
先生から顔が紅潮するまで、後ろから首を締められたりしていました。
 
 
あとは、「バカ!」「アホ!」
「そんなことだから、おまえはダメなんだ!」
みたいな言葉も多かったような気がします。
 
でもそれを、子どもが人格否定されたと感じないように、
褒める場面と上手く組み合わせて完結していたように思います。
 
そして、授業はとても面白かったです。
創業当初の熱気といえばいいのでしょうか。
 
 

創業という戦いの時期

 
これはいまになって言えることですが、
先生たち、とくに創業者の数名の先生は、
生徒と同じ立場に立って戦っていたのだと思います。
 
TAPから訴訟になるような独立のしかたをして、
もしも実績を残せず、お預かりした生徒たち/ご家庭を失望させ、
生徒を集められず、もろくも消えていったとしたら。
 
周囲や係争関係にあるライバルはどう思うでしょうか。
 
「そら見たことか」
「ざまあ見ろ」
「身の程を知らないから、そうなるんだ」
 
そう言われたでしょう。
 
そして自分や家族は、生活にも困るようになったかもしれません。
 
 
そうならないためには、目の前の生徒を合格させるしかない。
そう考えていたのではないかと思います。
(これは完全に想像なので、
すみません!!全然違うかもしれません。)

 
そうして離陸した弱小塾のSAPIXは、
当時隆盛だった桐杏学園や学習指導会が跡形もなく消え去り、
四谷大塚でさえ、過去の影響力を失うなか、
業界のトップ塾として揺るぎない地位を占めているんです。
 
SAPIXは生存競争に勝ち、生き残りました。
 
カッコよくないですか?
 
(ついでに言うと、創業者の先生たちは、
2010年に会社を大資本に譲っておそらく大金持ちになり、
なおかつ自分たち自身が作った大樹に再び挑もうとしています。
僕は直接かかわっていないので、
はたしてどうなるだろうか?と思って見守っています)
 
 
というわけで、子どもの視点から見た、
SAPIXの思い出でした。
 
皆さんに見ていただけるようなら、
先生として働いていた期間の思い出も書きたいと思います。
 
 
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